技術者教育への道  田川智彦

 私こと、平成29年3月末日をもって名古屋大学を退職いたしました。昭和47年に名大に入学以来、途中、カナダ国立研究所、東工大の約7年を除きずっと名大で過ごさせていただきました。この間を振り返りなにか見えない力によって道が切り拓かれてきたように感じております。
 入学は工学部応用化学科で当初は有機化学を志し、卒業研究と修士論文は金属錯体を用いた有機反応に関するものでした。博士後期課程進学時に合成化学科の工業触媒講座に移り、固体触媒の設計に関する研究で学位をいただきました。昭和57年にカナダ国立研究所(オタワ市)に研究員として着任し反応条件下での分子分光について研究する機会を得ました。昭和59年に帰国し、東京工業大学工業材料研究所(当時)に助手として採用され、セラミックス超微粒子の合成と評価を行いました。昭和63年には名古屋大学工学部化学工学科に講師として着任し、当時の第4講座「反応工学講座」に配置されました。その後、分子化学工学科への改組や大専攻制の大学院重点化などの改革(「物質プロセス工学」への講座名称変更も含め)はありましたが、一貫して反応工学を専門分野と位置付けてきました。
 当初、経験のあった触媒反応の解析やそれに基づく触媒設計から始め、徐々に反応分離へとすそ野を広げ、電気化学システムや圧力スイングといった機能を触媒反応器に組み込む試みを行いました。また、名古屋大学に設置された「先端研(当時)」のフォトリソグラフィー実習に参加したことを契機に、マイクロリアクターに関する研究を立ち上げもう一つの柱としました。上述のように数年に一度大きく専門分野を変えてきた自分に根のある学問や研究ができるか不安でしたが、反応工学という場を与えていただき、それぞれの分野の経験を活かすことができました。これも恩師の先生方、先輩方、同僚の皆さん、学生の皆さんのおかげと改めて感謝申し上げます。また、時々の研究を評価し共同研究の機会を与えていただいた皆様にも御礼申し上げます。
 折しも、工学部・工学研究科の改組により化学工学分野はマテリアル工学という枠組みの中に入ることになりましたが、世の中に必要とされている限り、名を変え、形を変えても、その本質は失われることはないと信じております。教室の皆様には世の中から求められる化学工学とその人材育成に向けての絶え間のない発展をお願いいたします。
 また、名大では技術者教育のあり方について勉強する機会もたくさんいただきました。分子化学工学科に対する技術者教育システムの導入、JABEE認証取得、継続、離脱などを経験いたしました。時の研究科長のご下命により、日本工業教育協会の企画委員を務め、その後、工学部・工学研究科の教育体制の整備にもかかわりました。このような経験を活かし若い技術者の教育に専心するため、定年まで2年を残して名古屋大学を退職し、平成29年4月1日付で国立高等専門学校機構・豊田工業高等専門学校に学校長として着任いたしました。突然の人事で多くの皆様、特に研究室在籍の学生の皆さんには多大なご迷惑をおかけしました。この場を借りてお詫び申し上げます。着任からほぼ1年が経過し、現代に求められる実践的技術者像とは何か模索する毎日です。中学卒業から20歳までの若者1000名の屈託のない笑顔に囲まれ、元気をもらいつつ、その育成への責任の重さを今更ながら痛感しています。
 最後に、これまでお世話になりました教室の皆様、健友会の皆様に心より御礼申し上げますとともに、高専の若者たちの将来に対する職責を全うするまで今しばらくの間、宜しくご指導・ご鞭撻賜りますようお願い申し上げます。